夫がアキレス腱切れてギブス生活はじまった中での育児
いつも空想の世界に浸り、目の前にいる、愛すべき妻や可愛い息子に対していつも心ここに有らずだった夫。
何度となく「自分の世界ではなく現実をみて。目の前の人間に興味を持ち、地に足をつけて。ここは地球です」
「それからスマホ依存。息子を目の前にして、スマホで息子の可愛い動画を観てはなりません。富士山の頂上で、富士山は美しいなぁという動画を見るようなものです。そんな人生で、本当に良いのですか」
と口酸っぱく指摘しても夫の心にはこれっぽっちも響かずで、私が何をどう語りかけても「月の住人に伝書鳩を送って奇跡的な返答を待つ」くらいの鈍い反応だった。
そんな夫に変化があった。
夫が怪我をしたのだ。スポーツをやっていた際に、アキレス腱がプチンと切れてしまった。
右足にギブス。そして松葉杖となり、ヨロヨロ&エンヤコラと移動する生活となってしまった。要ギブスは1~2ヶ月。その後、取り外しのできる装具をつけて、完治まで半年ほどかかるらしい。
突如として、否応無しに夫に突きつけられたらしい、己の肉体にかかる地球の重量と、その不自由さ。
思い通りににならない日常と、思い通りにできない事を、都度サポートしてくれるスレンダー巨乳で歯並びの美しい妻。
可愛い息子を抱き上げる事すら困難になった夫は、ふと、ある有名な一節をそらんじた。
「何でもないような事が、幸せだったと思う」
虎舞竜だ。が、その曲は死んじゃっている。しかも死んだのは妻の方です。
とりあえず「治る怪我で良かったね」と言ってあげた。なんでもない日常を有り難がれる気づきは、茶化しでなく、本当に怪我の功名と言えるでしょう。この機会に松葉杖を地に付けて、己の肉体をしかと感じるがよい。
しかしこの夫の怪我によって、私の方でも新たに気がついた事がある。
ひとつは、夫は良い人だということ。
夫はこう言った。「まみたの負担になりすぎないようにしなければ。(愛想尽かされんように)(小声)」
不慣れで不自由で痛い思いをしている真っ最中に、他者にかかる負担を想像できるのは、本当に優しい人だなあと思った。客観的なところがとてもよい。
ふたつめ。
普段、夫に対して家事育児について「もっと動けよ…」といくつもの不満が正直あったのだけど、夫の怪我をきっかけに、夫がやってくれていたタスクを私がまるっと引き受けると「結構大変なこと、やってくれていたのね…思ってた以上に助かってたんだなぁ」と実感することができた。
例えば、息子の保育園の送り迎え&保育園後の耳鼻科通い。
これまでは夫が迎えと耳鼻科に行っている隙に私は晩御飯の支度をして家で待っていたのだけど、その分担が物理的に困難になった。まず、晩ごはんを作るタイミングを失った。あれはとても有り難かったのだ。
夕方の時間配分という単純な問題だけではなく、育児界では有名な、扱いが特に難しいとされる厄介な生き物「2歳、男児」
を「保育園の先生から引き取って、教室から出て階段を下り、靴を履かせ、園庭をスルーして、自転車に乗せて出発する」にどれほどの労力がかかることか。
忍耐力、精神力、腕力、交渉力、観察力、演技力、傾聴力。
一瞬の機微を逃さず、発想を転換し、時にはピエロになり、時には脅し、時には甘えい言葉を囁いてなだめ、すかし、物で釣り、目標である園門の前に停めてある自転車に乗せてシートベルトをカッチンするまでに殉死した親の数は、優に万を超えるという。
夕方の保育園では、不幽霊となった親たちが「ねぇ?くっく、はこう?」「おうち、かえろ?ほいくえん、おしまいよ?」と最後の言葉を何度も繰り返しながら、力なく立ちすくんでいるおぞましい光景を幾度となく見かけた。
夫は毎日、過酷な責務を果たしてくれていたのだ。
他にも、私が息子に晩ごはんを食べさせている間に「お風呂掃除して沸かしてきて」や、「息子ベビーベッドに抱っこして連れて行って」や「コープ宅配で届いた段ボールに入った重たい飲料運んで」「自分の洗濯物しまっておいてよ」など、各種用事が非常に頼みづらい。足はだいじなのだった。
家の中をえっちらおっちら、あちこちを支えにしながら、あるいは長くて邪魔な松葉杖で両手を塞ぎながら、のっしのっしと必死に移動する夫は気の毒でならない。
いま私は、がんばらなければ、と責任を感じている。家事育児をがんばる。がんばって、家庭を回す。がんばるが、無理をして私まで怪我をしたり、風邪など些細なことでも体調不良となっては良くないとも思う。
我が家の構成メンバー「夫(ギブス&松葉杖/私/息子(2歳)、小型犬(ふわふわ)」
あまりに戦力に乏しすぎる。
ということで、ボトルネックである2歳男児のジャイアン一人っ子の独裁体制に対して、断固抗い、無慈悲なワガママを容認せず、自立を促す姿勢を取るという方針で、大人たちは決議した。
俺たちの戦いはこれからだ!